概要
保元の乱後に、後白河上皇近臣の藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目した。信西は平清盛と、信頼は源義朝と結び対立。清盛が熊野詣で京中を留守にしたのに乗じ、信頼らは挙兵。上皇を幽閉し、信西を殺した。急遽、京都に戻った清盛によって乱は鎮圧された。信頼は斬刑、源義朝は尾張に逃げたところを謀殺、義朝の子の頼朝は伊豆に流され、河内源氏の勢いはそがれた。対して、平氏は清盛が太政大臣になるなど隆盛するきっかけになった。
関連メモ
河内源氏
清和天皇の第六皇子貞純親王の子・経基王(源経基)の子・源満仲の三男の源頼信を祖とする。頼信の長兄は摂津源氏の祖の源頼光であり次兄は大和源氏の祖の源頼親である。
源頼信は、河内国古市郡壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とし、香呂峰(こうろほう)の館を建てる。本拠地が河内国であることから「河内源氏」と呼ばれる。
羽曳野市には、八幡太郎義家をはじめとする河内源氏の墓や、氏神の壷井八幡宮や壷井権現(祭神・源頼信、頼義、義家、義綱、義光)がある。
後白河上皇
後白河法皇(1127~1192)は鳥羽天皇の皇子。保元・平治の乱を始め武家の力を利用して朝廷での地歩を固め武家政権との共存を目指した。鳥羽天皇が崩御すると、源義朝・平清盛らを用いて崇徳院方を破った(保元の乱)。同三年(1158)、守仁親王(二条天皇)に譲位し、その後五代34年にわたり院政をしくことになる。平治元年(1159)、院側近の信西を打倒しようとする藤原信頼・源義朝らに御所を奇襲されたが、再び清盛の力により乱を抑えた(平治の乱)。平氏の専横が強まるにつれ、平清盛との関係も悪化した。第二子の以仁王が平氏追討の令旨を発すると、各地で源氏が蜂起した。寿永三年(1184)、源頼朝と手を組んで木曾義仲を討つ。翌年、源義経の要請に応じて頼朝追討の宣旨を発したが、結果的に頼朝の要求を受け入れ、義経追討の院宣を発してしまう。京都の長講堂で66歳で崩御された。