石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市八幡高坊にある神社。旧称は「男山八幡宮」。二十二社(上七社)の1つで、伊勢神宮(三重県伊勢市)とともに二所宗廟の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
宇佐神宮(大分県宇佐市)・筥崎宮(福岡市東区)または鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つ。また宮中の四方拝で遥拝される神社の1つである。本殿を含む建造物10棟が国宝に指定されている。
概要
平安時代前期の貞観年間に大安寺僧の行教が宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請した神社で、京都の南南西の男山(鳩ヶ峰、標高143メートル)山上に鎮座された[1][2][3]。創建年については『元享釋書』や『石清水遷座縁起』などでは貞観元年(859年)、『類聚国史』などでは貞観2年(860年)としている[2]。行教は貞観元年に宇佐八幡宮で八幡大菩薩のお告げを受け、それを朝廷に報告し、清和天皇の命を受けて貞観2年に八幡造りの社殿が造営されたともいわれる[1]。
都の近くに創建されたことから朝廷の尊信を受けて、賀茂神社、松尾大社、春日大社などと同等の待遇を受けるようになった[2]。さらに平安末期には白河天皇の殊遇を受け、伊勢神宮とともに二所の宗廟として崇敬されるようになった[2]。
また、平安京においては北東側の鬼門を守護する延暦寺に対し、南西側の裏鬼門を守護する神社として位置づけられた[3]。八幡神を氏神とする源氏の崇敬を受け、特に源義家は当社で7歳の時に元服し「八幡太郎義家」を名乗った[1]。そのため武神として信仰され、源氏の広がりとともに壺井八幡宮・鶴岡八幡宮など、当社から各地に八幡宮が勧請された。
石清水八幡宮は僧侶を中心に創建され、当初から宮寺形式をとり、境内の神宮寺である護国寺と一体とされるだけでなく、その要職は創建時から僧行教の系統である紀氏一統が長きにわたり務めた[2]。往時は多くの堂宇が所在し山麓も壮大であり、その様子は山麓の社殿である高良神社を八幡宮と勘違いしたという『徒然草』の話[4]で知られる。その後、幕末から明治維新にかけて神仏分離で仏式は排除され仏堂や仏塔は姿を消した[3]。仏式で行われていた放生会もまたその際に「石清水祭」と名を変えたが、現在も同祭は大祭として葵祭・春日祭とともに日本三大勅祭の1つに数えられる。
2012年(平成24年)1月の官報告示で境内は国の史跡に指定され[5][3][6]、大きく分けて本宮のある山上の上院と、頓宮や高良神社のある山麓の下院とから成る。また、本社10棟の建物が国宝に指定されている[7]。「やわたのはちまんさん」と呼ばれ親しまれている。
祭神
祭神は次の3柱。3神は「八幡三所大神」「八幡大神」等と総称される。
●中御前:誉田別命 (ほんだわけのみこと)
第15代応神天皇の本名。
●西御前:比咩大神 (ひめおおかみ)
宗像三女神、すなわち多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)、多岐津比売命(たぎつひめ)の3柱を指す。
●東御前:息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと)
神功皇后の本名。
歴史
貞観元年(859年)に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が豊前国、宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860年)清和天皇が石清水寺(現・摂社石清水社)の境内に社殿を造営したのが創建とされる。
「石清水」の社名は男山の中腹から湧き出ている”石清水”からといわれている[5]。
鎌倉時代の『宮寺縁事抄』によると男山には石清水八幡宮の創建前に「石清水寺」があったという[3]。石清水八幡宮境内からは創建年代以前の瓦が複数発見されている[3]。
また、元々男山の麓に鎮座していたのは和気氏の氏寺であった神願寺(和気清麻呂の墓があったと伝わる)であったが、空海ゆかりの高雄山寺を神護寺に改めて新たな氏寺にした際に元の神願寺に八幡神を勧請することで新たな位置付けを与えようとして行教や清和天皇の後見人である藤原良房に働きかけたとする説もあるが、神願寺の位置については諸説あるために現時点では可能性に留まる[8]。
石清水八幡宮が創建されると薬師如来を本尊とする石清水寺はその神宮寺となり、貞観4年(862年)名称を護国寺と改めてより神仏習合の度合いを増していった。
天慶2年(939年)、伊勢神宮に次いで奉幣される地位を得[5]、伊勢神宮と並んで「二所宗廟」と称されるようになる。皇室・朝廷からは、京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護鎮護の神、王権・水運の神として篤く崇敬され、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は250余を数える。
平安寺時代には神仏習合が進み、宮寺として「石清水八幡宮護国寺」と称するようになっていく。白河法皇によって天永2年(1111年)には真言宗形式の塔「大塔」が建立され、翌天永3年(1112年)には天台宗形式の塔「宝塔院宝塔(琴塔)」が建立されたとされている。
また、東寺(教王護国寺)・清水寺・比叡山延暦寺・仁和寺・鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)・相国寺・大安寺など多くの寺院と深い関係を持った。
中世以降は勧請元の宇佐神宮に代わって、伊勢神宮と並び二所宗廟[9]の1つに数えられる。また清和源氏の足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏などの源氏諸氏族から氏神として崇敬されたため、武神・弓矢の神・必勝の神とされた。これら源氏によって、当社の分霊は源頼義による壺井八幡宮や頼義・頼朝による鎌倉の鶴岡八幡宮など、数多くの八幡宮に勧請された。また伊勢平氏も当社を重んじ、平正盛の造営の功や平清盛ら伊勢平氏の臨時祭での演舞が知られる。
慶長年間(1596年 – 1615年)には境内の建物が豊臣秀頼によって修復されたり、再建が行われている。慶長10年(1603年)に大塔が、慶長11年(1604年)に宝塔院宝塔(琴塔)が、慶長12年(1605年)に阿弥陀堂がそれぞれ秀頼によって再建されている。
江戸時代まで護国寺や極楽寺、弁天堂を始め「男山四十八坊」と呼ばれる塔頭・宿坊が参道に軒を連ねたといい、寛永の三筆である松花堂昭乗も当社に仕える社僧であったことが知られる。豊蔵坊は将軍家の祈願所とされ、東照大権現(徳川家康)像が祀られていた。
慶応4年(明治元年・1868年)3月12日に明治政府の神仏分離令により、神号を「八幡大菩薩」から「八幡大神」と改め[10]、社号は1869年(明治2年)8月に「男山八幡宮」に改称した。同年、神宮寺であった護国寺は廃仏毀釈によって廃寺とされ、護国寺住職の道基は本尊の薬師如来像と十二神将像を淡路島の東山寺に移している。また、豊蔵坊にあった東照大権現像は京都の等持院に移された。そして、仏教の建物である大塔と宝塔院宝塔(琴塔)は解体され、阿弥陀堂(元禄11年(1698年)再建。享保年間(1716年 – 1736年)に改修)は1870年(明治3年)に正法寺の飛び地境内であった西車塚古墳の後円部上に移築された。
1871年(明治4年)に近代社格制度において官幣大社に列する[11]。1883年(明治16年)には勅祭社となっている[11]。
1918年(大正7年)1月、社名を「石清水八幡宮」へ復し[11]、現在に至っている。
1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
出典
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE